

| 江戸有数の景勝地として名高い愛宕神社は、浮世絵にも多く描かれています。特に見晴らしの素晴らしさは江戸随一で、正面の男坂を上ったあたりには多くの茶屋が軒を並べたそうです。1868年(慶応4年)、江戸城総攻撃の前に、勝海舟が西郷隆盛を愛宕山の山頂に呼び、眼下に広がる江戸の町を火につつむことの空しさを力説したため、西郷隆盛は無血開城させる道を選んだといいます。(東京都港区愛宕1-5-3) |
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| 1925年(大正14年)7月12日、日本初のラジオ本放送が行われた場所です。アンテナの鉄塔は東京名物となり、千代田区に移転する1939年(昭和14年)まで長く親しまれました。1956年(昭和31年)3月、世界初の放送博物館として開館。(東京都港区愛宕2-1-1) |
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| 愛宕山の東西の交通緩和のために造られたトンネルです。1930年(昭和5年)8月12日完成。開通当日は愛宕側と虎ノ門側では祝提灯を掲げて町ぐるみで祝ったそうです。 ※愛宕山の西、虎ノ門3丁目付近の当時の地名は、西久保。西の窪地であったため、付けられた地名です。 |
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| 見晴らしの良さで、江戸時代に名付けられた代表的な坂です。「江戸見坂」(写真左)は江戸の街を、「汐見坂」(写真右)は品川沖を眺望できました。両国の川開きの日には、打ち上げ花火を見るために大勢の人が詰めかけたそうです。(東京都港区虎ノ門2丁 目) |

| 1701年(元禄14年)3月14日、江戸城内の刃傷沙汰の日に十分な吟味のないまま切腹させられた浅野内匠頭終焉の碑です。浅野内匠頭の屋敷はこれより50mほど東にありました。「風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」無念の辞世の句はあまりにも有名です。(東京都港区新橋4-31) |

| 敷地内に鎮座する石造閻魔王像は、通称「こんにゃく閻魔」といい、江戸時代、信仰あつい眼病の神様でした。1838年(天保9年)発刊『東都歳時記』内に「正月16日は閻魔参り」というくだりがあるほど。眼病が治ったお礼に、こんにゃくを閻魔様に供える習わしだったといいます。(東京都港区虎ノ門2-10-8) |

| 1917年(大正6年)に誕生した日本初の美術館です。現在の建物は1927年(昭和2年)竣工。中国清朝式を基調とした、美しい意匠を施した貴重な東洋古建築です。館内には、国宝3点、重要文化財12点を含む美術品1,700点、書籍35,000点を所蔵しています。(東京都港区虎ノ門2-10-3) |

| 1928年(昭和3年)竣工。設計は、明治から大正末期にかけて日本各地にキリスト教関係の建物を数多く手がけたジェームズ・M・ガーディナーです。建物は左右対称で、中央の軒部分に三角ペディメントを置いた古典系統意匠が施されています。(東京都港区芝公園3-6-3) |

| 文明年間創建の大刹。閑静な敷地内には、法輪大観音像や、江戸時代の儒学者、井上金峨の墓があります。(東京都港区愛宕2-4-7) |
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| 通称、猿寺と呼ばれ、本堂の両脇に愛らしい猿の石像があります。敷地内には『解体新書』を刊行し『蘭学事始』の著者でもある杉田玄白の墓があります。(東京都港区虎ノ門3-10-10) |
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| 1590年(天正18年)、徳川家康が江戸入りしたのと同時に徳川の菩提寺と定めた寺。上野の寛永寺と並ぶ将軍家の菩提寺です。江戸時代には、幕府の学問所の役割も努めていたため、庶民には近づきがたい場所でした。1624年(寛永元年)に建造のまま今に至る国の重要文化財である三解脱門(写真下)、本堂(写真右)など、多くの有形文化財を有しています。(東京都港区芝公園4-7-35)) |

| 1858年(安政5年)、幕府はオランダ、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国と通商条約を結びました。その際、開港場と江戸を結ぶ中継地として最適な現在の港区内の寺院が宿舎に多く指定されています。真福寺は同年3月から約半年間オランダ使節団の宿舎になった場所です。(東京都港区愛宕1-3-8) |

| 1882年(明治15年)の慈恵会病院の設立を経て、1933年(昭和8年)に竣工された、現在も現役で利用されている貴重な建物です。昭和初期に流行った円窓のある煉瓦調スタイルを生かしたモダンな造りが施されています。(東京都港区西新橋3-25-8) |

| 現在東京タワーが建つ場所は、二代将軍秀忠が江戸城内紅葉山から楓樹を移し植え、紅葉山と呼ばれた場所です。江戸時代を通して紅葉名所のひとつとして賑わいました。(東京都港区芝公園4-2) |